Friday, June 26, 2015

"Neanderthal Man: In Search of Lost Genome" by Svante Pääbo(読書ノート):【1】分子人類学のパイオニア

Svante Pääbo については前回の尾本恵市の本の紹介のときにふれた [6/23/15]。本書は昨年出版されたパーボの自伝("Neanderthal Man: In Search of Lost Genome", ISBN-13: 978-0465054954 ISBN-10: 0465054951)である。

本書の印象は?というと、面白かったの一語に尽きる。何がどう面白かったか、何回かに分けて書くことにする。

Svante Pääbo はドイツで活躍するスウェーデン出身の人類
学者である。発掘された化石やミイラからDNAを抽出し、その塩基配列を決定することによって進化を論じる分野を古遺伝学 paleogenetics という。Pääbo は古遺伝学の先覚者である。おそらく分子生物学による人類の起源に関する研究では史上最大級の貢献をした人物だと思う。優れた科学者の自伝がある研究分野の歴史そのものであることが多いが、この "Neandertal Man" も例外ではない。

Svante Pääbo はスヴァンテ•パーボと呼ぶ。äはドイツ語的には“エ”に近いのだが、スウェディッシュでは口を大きく開けたア”になるらしい(と職場のスウェーデン人に教わった)。但しこれは母親の姓で、母はエストニア人である。両親は幼いときに離婚したので Pääbo は父親のことをほとんど知らないという。父親はプロスタグランディンの発見で 1,982 年のノーベル医学生理学賞を受賞したスネ・ベリストローム Sune Bergströである。母親も生化学者である。したがって、Pääbo は実の父親のことをほとんど知ることなく育ったが、血統的には科学者のサラブレッドというにふさわしい。実際本書を読み進めてゆくうちに、この人物がいかに研究の才能に恵まれているかがわかってくる。

回想はミトコンドリア DNAmtDNA)断片の塩基配列決定から始まる(第一章)。この DNA はネアンデルタール人の骨から抽出されたのだ。ラボでこの仕事に取り組んでいたポスドクの電話で夜中に呼び出される 。学校で習うとおり、ミトコンドリア DNA は染色体 DNA とは異なり、母親のみから受け継がれる。したがって、染色体 DNA とは異なり減数分裂の時の父方、母方の間でのシャフリングがおこらない。ふつう博物館の標本はその採取の過程でヒト(研究者や作業者)の DNA で汚染され、かつ汚染した DNA のほうが質的、量的に勝ることが多い。このような状況でネアンデルタール人のDNAを同定するためにはコピー数の多いmtDNAを検出するのが得策だと考え、PCR でヒトのmtDNA をプライマーにしてネアンデルタールのmtDNAの増幅を試みたのだ。

このとき既に、Rebecca Cann、Allan WilsonらによるミトコンドリアDNAの解析により、すべての現生人類のmtDNA はたった一人のアフリカにいた女性に由来すると考えられていた(この女性をミトコンドリア•イヴと呼ぶ)。このミトコンドリア・イヴから始まった人類は世界各地に拡散したというのだ (Cann et al., 1987)。Pääbo らの決定したネアンデルタールに由来する(とかなりの確立で推定される)mtDNA の配列は、379塩基付中28カ所にわたって現生人類のものとは異なっていた。これに対してかなり広範囲(アフリカ、アジアを含む)の現生人類のミトコンドリア DNA 同士では、同じ領域で僅か4箇所しか違いがなかったのである。それでこれをネアンデルタール人特有の配列と断定したのである。

Pääbo の真骨頂はこの後の作業である。実験研究に 従事している方にはおなじみだと思うが、科学的事実はただ一回の実験結果で確定するわけではない。その結果の解釈が正しいとするための確認実験、対照実験とさらにそれらの繰り返し実験を行うわけである。いわゆる良い科学雑誌はそのような“押さえの”データを大量に要求するのである。そのことは昨年報道された日本での科学不正(に分類される)事件の報道で一般にも多少は認識されたかもしれない。ともあれ、Pääbo らは一連の“押さえ”の最後の決定打として、同じ結果が他のラボの独立した実験で確認されるという事実を加えることにした。この確認実験は別の実験者によって採取された同一個体のネアンデルタール人の骨から米国の研究室(ペンシルバニア州立大)で行われた。

研究は1,997年にCell 誌上に発表された (Krings et al., 1997)。



この発見で重要なことは、mtDNA で見る限りネアンデルタール人は現代人とは明らかに異なっていたことである。ネアンデルタール人の骨は主に欧州で発掘され、アフリカでは発見されていない。ネアンデルタール人と現生人類は数万年前、ともに欧州に住んでいながら異なる起源を有していたわけである。データそのものはとても小さなものだが、“人類アフリカ単一起源説”を支持するものであった。もしネアンデルタール人を含む人類の祖先と思われる人々と他の我々の祖先が各地で交雑してるならば、現生人類のDNA中にネアンデルタール人の配列が見出されるはずである。つまり現生人類のゲノム配列には地域的な特徴が現れるはずであり、欧州におけるその特徴はネアンデルタールのDNAの残存である。しかしデータの示す答えは”否”であった。

私はここに優れた科学の特徴のひとつの典型をみる。科学的営為とは、でき限り少ない労力で学説を覆したり、新たな理論の可能性を見出そうとすることなのだ。すなわち先駆的研究は常に一点突破なのである。このPääboの研究で否定されようとしていた学説は、“人類の多起源説”であった。

(続く)



 

Tuesday, June 23, 2015

ヒトはいかにして生まれたか、尾本恵市著、講談社学術文庫、2,015年(読書ノート)

 本書は初心者(あるいは門外漢)のための自然人類学の入門書。尾本恵市(1,933年生まれ)は 東京大学理学部人類学教室の教授を務めた日本の人類学の泰斗。人類学が考古学を主体とした古典的な学問から、DNA塩基配列に基づいたソリッドな自然科学(分子人類学 molecular anthropology)に変貌する過程を自ら研究者として体験した。この約半世紀の間の人類学、あるいは生物学上の発見で重要な事例が3つ挙げられている。最初のものは1,953年のワトソン・クリックによるDNA二重らせん構造の発見である。このとき尾本は学生であったが、この発見から強い刺激を受けた結果、その後の進路が大きく影響をうけることになる二番目は1,987レベッカ・キャンRebecca Cann、Allan Wilson らによるミトコンドリアDNAの塩基配列から人類の起源がアフリカにあること(単一起源説)の提唱。三番目は1,997スヴァンテ・パーボ* Svante Pääboらによるネアンデルタール人骨から抽出したDNAからのミトコンドリアの部分塩基配列の決定である。これらの発見を経て、原生人類の起源がアフリカにあり、それが地球上の各地に拡散していったという学説が広く受け入れられるようになったことが本書で述べられる。

 かつては人類学の書物を手に取ってもなかなか頭に入ってこなかったものである。これは当然だと思う。人類学者(この場合は考古学者)は肉も皮も付いていない骨の形態だけでその系統を論じていて、門外漢には登場人物(一部は登場原人とか登場旧人だが)のイメージがさっぱりわかなかったのだ。分子生物学の導入の結果、そこに進化の“物差し”のようなものができたわけだ。それで門外漢でもようやく人類学を理解できるようになった。分子生物学の効用は多々あるが、その一つの利点は特定の分野の研究が隣接する分野の研究者にも理解され、したがってより広い範囲の研究者が研究内容について議論できるようになったことである。タコツボであった生物学の諸分野が共通の言語を獲得したのだ。さらに言うならば、分子生物学の進歩は概して“素人の参入”を促してきたのだ。(この分子生物学の意義については項を更めて述べることにする。)

 本書では、学生時代の大先生(退官後の名誉教授)との交わりなどのエピソードを挙げながら、人類学の歴史を簡単に辿り、いかにして人の進化的地位が確立したかを語る。人と遺伝的に(系統的に)最も近縁な動物はチンパンジーである。しかしその外見的(形態的)な違いにもかかわらず、両者の遺伝子塩基配列は約99%同じである。他の多くの人類学者が語るように、本書でもヒトの地球上における棲息域が異常に広いことも語られる。この人類の広い分布にも関わらず遺伝的多型に基づいたヒトの多様性は驚くことにチンパンジーよりもずっと小さいのである。(尤もこの後者の部分は本書では触れられていないが)ヒトが高い知能を獲得したことと、その高度な環境適応能力との関連を示すものであろう。
 
 1,953年のワトソン・クリック論文が出た当時尾本は学生であった。1,997年のパーボ論文までの半世紀弱、尾本はこの人類学の激変の入り口と到達点のすべてに立ち会うことができた稀有の存在である。本書で言及されている有名な研究者のほとんどに没年が記されているとおり、多くはその到達点を見ずして世を去っている。驚くべきことに、当時の日本の人類学会の大御所(件の大先生名誉教授だが)は、人類学は遺伝学とは違うところにあると述べていたそうだ。つまり尾本が人類学の門を叩いたときには日本の人類学はモダンな科学の“入り口”以前にいたことになる。ただ尾本はこのような分子生物学による華々しい成果を認めつつも、様々な事実の断片から想像力を働かせて古い時代の人類とその祖先の有りようを理解しようとする営みの重要性を説いている。私流に解釈するならば、ここに広い意味での歴史(一回限りで起こったことを扱う分野のこと、”歴史”、”進化”、”宇宙の生成”などが含まれる)に関する学問の”限界”と同時に尽きない”魅力”があると思う。

 なお本書は1,998年の講演内容をもとに書かれているので、最新の分子生物学的成果の記述についてはやや不十分のきらいがある。この点は最後に”学術文庫版(2,015年)のための補足”の項目が追加されていて、最新の研究成果も簡潔に紹介されている。やや全体的なバランスが良くないが、本書は全くの素人から隣接分野の研究者まで、人類学に興味のある読者に勧められる魅力のある書である。

スヴァンテ・パーボ Svante Pääbo はドイツ語読みでペーボを表記されることが普通だが、本人はスウェーデン出身なのでカタカナではパーボと読むのが近く(Aの音が3つあるらしいが)、そのように表記した。

 次回からそのパーボの自伝 "Neanderthal Man" の読書ノートを掲載する。


Saturday, June 20, 2015

地球を4分の3周した稲【3】


さてマダガスカルの稲はどこから来たのであろうか? 距離的に近いアフリカ大陸から来たのだろうか? しかしユーラシア大陸はインド亜大陸と西アジアとの間で栽培植物において大きな断絶がある。湿潤な東側では稲が、乾燥した西側では小麦が栽培されてきた。こうした理由で稲が大陸伝いに中東地域に至り、アフリカ大陸に伝搬したと考えるにはかなり無理がある。さらにアフリカ大陸には中央に東西に走るサハラ砂漠があるので南北間の往来には制約があった。これはダイアモンドが“銃・病原菌・鉄”で強調していることである。さらにアフリカ大陸にはアジアイネとは異なるアフリカイネ Oryza glaberrima という土着の近縁種があり、そのためマダガスカルの稲がアフリカ大陸に由来したとはやはり考えられない。

その答えは現在となってはかなり明らかとなっている。稲はインドネシアから来たのである。マダガスカルではインディカと熱帯ジャポニカ(ジャワニカ)の両方の稲が栽培されている。これらはいずれもアジアが起源で、1,400年前から800前の間に数次に亘ってもたらされた。いずれも大航海時代よりかなり前のことである。考古学研究により、マダガスカルに棲む人々の起源は、アフリカと東南アジアの両方であることもわかっている。言語的にもアフリカ系言語と、アジア系言語(オーストロネシア語族)の両方が使われている。最近の遺伝学的解析(多型分析)によってもマダガスカルの人々はアフリカと東南アジアの両方からもたらされたようである [Hurles et al., 2,005]。

特に言語学、遺伝学の両方のデータは、このアジア系の人々がボルネオ島南部から来たということを強力に示唆している。しかしこの間のインド亜大陸やスリランカ島に由来する人々はあまりいない。したがって、東南アジアの人々が、言語、食習慣を含む文化を携えて舟でインド洋を渡ってマダガスカル島に辿りつたと考えられている。それにしてもオーストロネシア言語の分布域の広さは驚嘆に値する(西はマダガスカル、東はイースター島、北は台湾、南はニュージーランド)(図)。マダガスカルのイネは大部分がインディカ、一部が熱帯ジャポニカである。

ウィキペディアより


栽培種としての稲は数千年前に、中国南部の珠江Pearl River中流域で始まったと言われている [Huang et al., 2,012]。珠江は香港付近で南シナ海にそそぐ大河である(図)。イネの作物化であ
るが、最初に野生イネ Oryza rufipogon が作物化されてO. sativa japonica ができる。これに再び O. rufipogon (但し最初のものとは遺伝的にやや異なる集団)と交雑して O. sativa indica ができたというのがゲノムシークエンシングを駆使した最近の大規模な研究の結論である [Huang et al., 2,012]japonica は栽培地域によって温帯temperateジャポニカと熱帯tropicalジャポニカ(javanica)に分かれたという。

一方米国のイネである。よく知られているように米国は国家戦略として主要作物の種子を世界中から集めている。イネについては1,900程のコレクションがあり、このうち 1,763 についてSNPをもとにした遺伝的解析が行われている  [Agrama et al., 2,010]。この解析をおこなったのは例のスツットガートにある農務省(USDA)とアーカンソー大学(University of Arkansas)の研究者達である。解析の結果、イネは5つのクラスターを作り、それらはtropical japonica, temperate japonica, indica, aromatic, それに aus であった。最後の ausは東部インドやバングラデシュで栽培されている洪水に抵抗性の小グループだ。米国で収集されたコメは63品種に上るが、これらの大部分(52品種)は熱帯ジャポニカのクラスターに包含され、少数がインディカ(2品種)、あるいは温帯ジャポニカ(2品種)であった。残りはどちらともいえないジャポニカ(7品種)であった。

このことから、米国のイネの大部分は熱帯ジャポニカである。個々のイネ品種の由来が記載されている文献を入手できなかったので、論文のsupplementary tableから読み取れるのはここまでである。稲は東南アジアからマダガスカルに渡り、このうち主に熱帯ジャポニカが米国南東部に到達し、この稲は北米南部の湿潤地帯全域に広まったと考えられる。稲は地球を4分の3周したのだ。もちろんこの稲作を支えていたのは奴隷であった事実は無視するわけには行かない。このため南北戦争後の奴隷解放によって、サウスカロライナなどでは稲作が衰退してしまったのだ。

さてジャポニカとインディカの違いであるが、一般には短
粒種=ジャポニカ、長粒種=インディカ、と理解されていると思う。筆者もそう思っていた。ところがイネの品種の遺伝的な近縁度と粒の形状には上のような固定した関係はない。ジャポニカのなかにも粒の長いものもある。アメリカ長粒種というのは名前の通り、典型的な長粒種の特徴を持っている(写真)。私は当初これはインディカだと思ったのである。しかし、これが熱帯ジャポニカだとしても不自然ではないのである。

今日では、100以上の品種が六つの州(アーカンソー、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、ミズーリ、それにカリフォルニア)で栽培されている。アーカンソーでも日本米の栽培が行われていたりする(写真)。しかし東アジア由来のコ
メ品種を栽培しているのは何といってもカリフォルニア州である。カリフォルニアで稲作が盛んなのはサクラメントの北にある6つ郡である(前回の州別稲作図)。ここでの稲作はゴールドラッシュの頃の中国系移民、その後の日系移民によってもたらされたものである。これらの稲は太平洋を渡ってきたので大西洋経路と太平洋経路の両方を合わせると、稲は地球をほぼ一周して北米大陸に到達したわけである。(今回はこのカリフォルニアの稲作の成立については述べない。)

最後になったが、アーカンソーには第二次大戦中の日系人収容所が2箇所あった(写真下)。このことからアーカンソーの稲作が成立するのに日系人が関与している可能性を当初から考えていた。これがスツットガート訪問の動機の一つであった。その理由の一つはテキサスに稲作を広めたのは岸吉松という人物であった。岸はテキサス州南東部で稲作を試み、1,908 年に 初収穫を得た。その後最盛期には約40人の日本人、日系人がそこで生活していたという 。そこで、アーカンソーでも同様のことがおこった可能性を考えたのだ。しかし、アーカンソーの稲作は Hope という白人によってもたらされた。さらにアーカンソーに収容された日系人は主に西海岸に住んでいた人々で、実際アーカンソーに日系移民が入植したとする記録は見つからない。筆者はロスアンゼルスでかつてアーカンソーの収容所にいたことのある方とお話したことがあり、もともとこのミシシッピ川中流域に日系人がほとんどいなかったことは確実である。

 
Jerome War Relocation Center

Rohwer War Relocation Center

(この項終わり)


Saturday, June 13, 2015

地球を4分の3周した稲【2】

アーカンソーに稲作が導入される以前から、既に米国南
部諸州(ルイジアナ、テキサスなど)では稲作が盛んに行われるようになっていた。 アーカンソー大平原博物館にはこの地で最初に稲作に成功したとされる人物の展示がある。それは Bill Hope という人で1,901年のことである(写真右、左上の小さい額)。

米国南部から中西部にかけて は夏の間は十分に気温が上昇する。問題は水の確保である。アーカンソー州というのは二つの地域に分かれていて、西は山地、東は平原である(図)。西の山地に降った水は、谷を流れ落ちて
ミシシッピ川の支流になるか、山裾から出てくる湧き水になるか、または山地からの水が伏流水となり、これは平原の地下水脈となる。そこで人々は地下水を汲み上げる効率のよい方法を使えば平原地域で水田開発が可能だと考えたのである。この稲作の試みは僅か23年の努力の結果、成功したのであった。下の写真は最初に収穫された籾である。

この稲作の成功の結果、それまでは大した産業のなかったアーカンソー州にそれまでに北部諸州に入植していた人々が移住してくるようになったという。このころは南北戦争が終わって3040年の頃であり、今と違って内陸部の人々はより良い暮らしを求めて盛んに移住している様子であった。アーカンソーで二番目に稲作に成功した John Morris という男は少し前にはネブラスカにいたのだが、生まれはウェールズ(ブリテン島)である。この頃アメリカの“西部”にいた人たちは未だ開拓者精神に富んでいたとみえる。

初めて収穫された籾
馬用のカンジキ

コメのコーナーには馬用の カンジキのような器具が展示されており泥田で馬を使役していたらしい(写真上)。その後、 関連技術の進歩に伴って稲作の形態も変化した。最大のものは馬から内燃機関への移行であった。こうしてアーカンソーの稲作は約100年間も重要な産業として続いてきた。現在でも東部アーカンソーにおける米作の地位は現在でも揺るぎないものである。小さな町の秋祭りがRice Festivalと称され、町民総出の催しであったりする(写真はWeinerのライスフェティバル)。

パレードの先頭を飾るチアガール

稲藁の荷台に乗っている


米料理のスタンドは無い!

稲作の歴史を説明している

1,940年代の脱穀機械。デモ運転が行われた。

米国の農業が大規模であることはよく知られている。だい
たい2マイル四方の土地が一軒の農家の所有だと考えてよい(写真左)。この土地を耕作するのに日本では見たことのないような大型の農用機械を使うのである。肥料・農薬散布は小型の飛行機を用いる。この地域では米、綿花、それに米が主要作物である。コメ農家は転作することが困難であるという。その理由は稲作用の農機器が他の作物のために共用できないからだと聞いた。

収穫されたコメは主に輸出に回される。最大の輸出先はメキシコである。集荷された米は梱包会社(Ricelandなど)によって精米される。その過程で出てくる潰れた米粒はビール生産用として出荷される(写真下)。米国の大手ビール会社はだいたい米を補助的な糖源として用いている。このため米国製ビールは欧州ではビールと認定されないことがある。

左から二番目がビール用に出荷される

 さて前述のアーカンソー大平原博物館で小冊子を見つけて購入した(値6ドル)。タイトルは “BEGINNINGS of the RICE INDUSTRY of Arkansas” J. M. Spicer, 1,964)である
(写真左)。興味深いことに、この小冊子にはアーカンソーの稲作の歴史はもとより、北米の稲作の歴史も記載されている。それにとると、米国の稲作の歴史は17世紀に始まる。当時の北米は合衆国独立の約200 も前であった。稲は偶然によってもたらされた。1,686年サウスカロライナ州のチャールストンCharlestonに一隻のニューイングランド船が入港した。この船はインド洋のマダガスカルを出発して英国リバプールへ向かう途中であったが、大西洋を北上中に嵐に遭遇したのだ。船は破損して航行に支障をきたしていたのでチャールストンに寄港した。この船にはマダガスカルで収穫された稲籾の入った小さな袋が積んであった。この袋は地元でプランテーションを経営するDr. Henry Woodwardのもとに残された。チャールストン付近の海岸線は広い範囲で湿地帯となっている(写真)。この湿地帯に土地を所有する
Woodwardは稲の栽培を試みたのである。米国南部のサウスカロライナは暑い地域である。稲はこの土地によく適応し、稲作は成功する。やがてこの地域一帯が稲作地帯となる。さらに稲作は南部諸州に拡がり、遂にアーカンソー、ミズーリに至る(地図)。地図で最も濃い緑はアーカンソー州からミズーリ州南部に至るエリアである。


 稲が北米にもたらされた話の細部には異説もあるようだが、アメリカの稲はマダガスカルから来たのだ。
(続く)