Sunday, September 21, 2014

マストドンから始まったファンタジー: “The Sixth Extinction” by Elizabeth Kolbert(読書ノート)


地球史上、生物の大絶滅はこれまで5回あったことが記録されている。これらをビッグファイブと呼ぶらしい。最後のものは白亜紀末で、このときはジュラ紀から栄えていたほとんど全ての恐竜が絶滅したことで有名である。現在進行形の(すなわち6回目の)“大絶滅“は人類が引き起こしていている。近年この絶滅の速度が増している。 私は、本書はこのような人類による絶滅の加速を糾弾する書かと思ったのだが、内容はもっと広く、知的刺激に富んだものであった。特に第2章は“絶滅種”の概念の誕生をドキュメントした優れた文章である。生物種が絶滅するという概念の誕生は、マストドンの歯や骨の発掘から始まる。本章のタイトルは“マストドン”であるが、主人公はこの絶滅種の命名の中心人物であったGorges Cuvier(キュヴィエ)である。脇役としてThomas Jeffersonらが登場する。

マストドンMastodon)は北米大陸に約13,000年(更新世)まで棲息していた象に近縁な絶滅大型哺乳動物である。しかし絶滅種の概念を作った張本人はフランス人博物学者Cuvierである。マストドンはその骨が18世紀に米国ニューヨーク州(1,705年)、次いでケンタッキー州で(1,739年)フランス人によって発掘された。これらはパリに送られて研究されたが、当初から人々を困惑させてきた。骨の特徴から動物種が特定できなかったからである。大腿骨や牙は象に似たものであったが、その歯は象とは異なりあたかも肉食獣のようであった。発掘現場には2種以上の動物の死骸があり、骨はこれらの混ざったものであるという学者もあった。

Cuvierがパリの自然史博物館に職を得たのは1,795年のことで、このとき25歳であった。翌年の公開講座で、彼は博物館に収蔵されていた 様々な動物の骨格標本の観察から、当時同種と考えられていたアフリカ象とアジア象が別種であることを述べた。さらにシベリアで発掘されたマンモスも象の近縁別種であると考えた。Cuvierはさらにさらにこれらに加えて当時は“未知のオハイオの動物”といわれていたマストドンも“絶滅した”近縁な別種であると結論づけた。

この絶滅動物種の概念は当時まだ存在しておらず、これはCuvierの功績である。Cuvierはさらにこれを拡張して、過去のある時代には” 現在我々の見ることのできない、すなわち絶滅種ばかりで満たされていた世界があった“と考えた。このことを証拠づけるために、”絶滅した新種”のリストを作ろうとしたのである。 時あたかもパリでは建設ブームであり、使用される石膏を採取する石切り場から多数の化石が見つかっていた。さらに当時、ヨーロッパの富裕階級では発掘される化石を蒐集することが流行となっていた。

この状況を利用して、Cuvierはフランスばかりかヨーロッパ各地から集めた骨格標本から、新たに複数の絶滅種を記載することができたのである。その数は1,800年には23種、1,809年には46種にまで到達した。 Cuvierの”生物絶滅“の概念は一般に認められたのである。肝心のマストドンは、1,806年になってmastodonteと命名した。乳頭状の突起を持つ臼歯の形状から名付けられたのである。

“世界は絶滅種で満たされていた”。こうしたファンタジックな世界はフランス国外にも広まり、流行は大西洋をこえて米国に及ぶ。マストドンの骨は北米(ニューヨーク州)で発見されたにもかかわらず、初期の発掘物の大部分はニューオリンズ経由でフランスに運び去られた。後発のアメリカの学者はこの動物種の確定や、生物絶滅の概念の確立に何ら寄与することができなかった。当時合衆国副大統領であったJeffersonは、多数の化石が収集されていたフィラデルフィア(当時の首都)の自然史博物館に自ら赴いて、新たな絶滅動物を見つけようとしたのであった。

後にJeffersonはルイジアナ領土を購入した後に、太平洋に至るルートを発見するべく有名な ルイス・クラーク探検隊を結成した(1,8031,806年)。この探検隊の任務にマストドンが現存しているかどうか確認することも付け加えられた。最終的にJeffersonのこの希望(野望)は達成されることはなかった。Jeffersonは早くも1,781年頃には当時議論が沸騰していたマストドンの命名に参加しようとしていたのであった。よろず何にでも興味を示すJeffersonらしい逸話である。

Cuvierは特定の年代に見られる生物種が時を経て変遷することを記載した。この様子は、既に広く流布されていた進化論のイメージに合致するものであった。にも関わらずCuvierLamarck流の進化論を受け入れることはなかった。それは彼が特定の種(例えばネコ)の観察の結果解剖学的形態が不変であると認識していたからである。進化の代わりに天変地異による大絶滅と、その後の種の交代(神による創造?)によって説明しようとするものであった。Cuvierにとって、生物進化は空中浮遊と同じ程度に受け入れ難いものだったのである。

本章だけで興味は尽きないのであるが、この章で記載されている事実は大変興味深い。第一に研究者•学者にとって、“現象をいかに捉えるか“という問題である。Cuvierは透徹した解剖学者の目をもって、動物種間の近縁関係を的確に明らかにしていった。現象把握、あるいはデータ解析における玄人の技量の重要性が示される。もう一つは、把握した現象。または現象の総体から、その裏にある原理をいかに構築するか“ということである。この面ではCuvierの解釈は現代的解釈(進化論)とは合わない。進化論というパラダイムはCuvierによって選ばれなかったのである。このような研究における二つの 局面の重要性は、実験技法が高度化した現代の研究者にとって、いささかも減じるものではないと思う。

写真はマストドンの全骨格(New York State Museum, Albany, NY, 本人撮影 2,014年8月)。