Tuesday, June 23, 2015

ヒトはいかにして生まれたか、尾本恵市著、講談社学術文庫、2,015年(読書ノート)

 本書は初心者(あるいは門外漢)のための自然人類学の入門書。尾本恵市(1,933年生まれ)は 東京大学理学部人類学教室の教授を務めた日本の人類学の泰斗。人類学が考古学を主体とした古典的な学問から、DNA塩基配列に基づいたソリッドな自然科学(分子人類学 molecular anthropology)に変貌する過程を自ら研究者として体験した。この約半世紀の間の人類学、あるいは生物学上の発見で重要な事例が3つ挙げられている。最初のものは1,953年のワトソン・クリックによるDNA二重らせん構造の発見である。このとき尾本は学生であったが、この発見から強い刺激を受けた結果、その後の進路が大きく影響をうけることになる二番目は1,987レベッカ・キャンRebecca Cann、Allan Wilson らによるミトコンドリアDNAの塩基配列から人類の起源がアフリカにあること(単一起源説)の提唱。三番目は1,997スヴァンテ・パーボ* Svante Pääboらによるネアンデルタール人骨から抽出したDNAからのミトコンドリアの部分塩基配列の決定である。これらの発見を経て、原生人類の起源がアフリカにあり、それが地球上の各地に拡散していったという学説が広く受け入れられるようになったことが本書で述べられる。

 かつては人類学の書物を手に取ってもなかなか頭に入ってこなかったものである。これは当然だと思う。人類学者(この場合は考古学者)は肉も皮も付いていない骨の形態だけでその系統を論じていて、門外漢には登場人物(一部は登場原人とか登場旧人だが)のイメージがさっぱりわかなかったのだ。分子生物学の導入の結果、そこに進化の“物差し”のようなものができたわけだ。それで門外漢でもようやく人類学を理解できるようになった。分子生物学の効用は多々あるが、その一つの利点は特定の分野の研究が隣接する分野の研究者にも理解され、したがってより広い範囲の研究者が研究内容について議論できるようになったことである。タコツボであった生物学の諸分野が共通の言語を獲得したのだ。さらに言うならば、分子生物学の進歩は概して“素人の参入”を促してきたのだ。(この分子生物学の意義については項を更めて述べることにする。)

 本書では、学生時代の大先生(退官後の名誉教授)との交わりなどのエピソードを挙げながら、人類学の歴史を簡単に辿り、いかにして人の進化的地位が確立したかを語る。人と遺伝的に(系統的に)最も近縁な動物はチンパンジーである。しかしその外見的(形態的)な違いにもかかわらず、両者の遺伝子塩基配列は約99%同じである。他の多くの人類学者が語るように、本書でもヒトの地球上における棲息域が異常に広いことも語られる。この人類の広い分布にも関わらず遺伝的多型に基づいたヒトの多様性は驚くことにチンパンジーよりもずっと小さいのである。(尤もこの後者の部分は本書では触れられていないが)ヒトが高い知能を獲得したことと、その高度な環境適応能力との関連を示すものであろう。
 
 1,953年のワトソン・クリック論文が出た当時尾本は学生であった。1,997年のパーボ論文までの半世紀弱、尾本はこの人類学の激変の入り口と到達点のすべてに立ち会うことができた稀有の存在である。本書で言及されている有名な研究者のほとんどに没年が記されているとおり、多くはその到達点を見ずして世を去っている。驚くべきことに、当時の日本の人類学会の大御所(件の大先生名誉教授だが)は、人類学は遺伝学とは違うところにあると述べていたそうだ。つまり尾本が人類学の門を叩いたときには日本の人類学はモダンな科学の“入り口”以前にいたことになる。ただ尾本はこのような分子生物学による華々しい成果を認めつつも、様々な事実の断片から想像力を働かせて古い時代の人類とその祖先の有りようを理解しようとする営みの重要性を説いている。私流に解釈するならば、ここに広い意味での歴史(一回限りで起こったことを扱う分野のこと、”歴史”、”進化”、”宇宙の生成”などが含まれる)に関する学問の”限界”と同時に尽きない”魅力”があると思う。

 なお本書は1,998年の講演内容をもとに書かれているので、最新の分子生物学的成果の記述についてはやや不十分のきらいがある。この点は最後に”学術文庫版(2,015年)のための補足”の項目が追加されていて、最新の研究成果も簡潔に紹介されている。やや全体的なバランスが良くないが、本書は全くの素人から隣接分野の研究者まで、人類学に興味のある読者に勧められる魅力のある書である。

スヴァンテ・パーボ Svante Pääbo はドイツ語読みでペーボを表記されることが普通だが、本人はスウェーデン出身なのでカタカナではパーボと読むのが近く(Aの音が3つあるらしいが)、そのように表記した。

 次回からそのパーボの自伝 "Neanderthal Man" の読書ノートを掲載する。


No comments:

Post a Comment