Saturday, June 20, 2015

地球を4分の3周した稲【3】


さてマダガスカルの稲はどこから来たのであろうか? 距離的に近いアフリカ大陸から来たのだろうか? しかしユーラシア大陸はインド亜大陸と西アジアとの間で栽培植物において大きな断絶がある。湿潤な東側では稲が、乾燥した西側では小麦が栽培されてきた。こうした理由で稲が大陸伝いに中東地域に至り、アフリカ大陸に伝搬したと考えるにはかなり無理がある。さらにアフリカ大陸には中央に東西に走るサハラ砂漠があるので南北間の往来には制約があった。これはダイアモンドが“銃・病原菌・鉄”で強調していることである。さらにアフリカ大陸にはアジアイネとは異なるアフリカイネ Oryza glaberrima という土着の近縁種があり、そのためマダガスカルの稲がアフリカ大陸に由来したとはやはり考えられない。

その答えは現在となってはかなり明らかとなっている。稲はインドネシアから来たのである。マダガスカルではインディカと熱帯ジャポニカ(ジャワニカ)の両方の稲が栽培されている。これらはいずれもアジアが起源で、1,400年前から800前の間に数次に亘ってもたらされた。いずれも大航海時代よりかなり前のことである。考古学研究により、マダガスカルに棲む人々の起源は、アフリカと東南アジアの両方であることもわかっている。言語的にもアフリカ系言語と、アジア系言語(オーストロネシア語族)の両方が使われている。最近の遺伝学的解析(多型分析)によってもマダガスカルの人々はアフリカと東南アジアの両方からもたらされたようである [Hurles et al., 2,005]。

特に言語学、遺伝学の両方のデータは、このアジア系の人々がボルネオ島南部から来たということを強力に示唆している。しかしこの間のインド亜大陸やスリランカ島に由来する人々はあまりいない。したがって、東南アジアの人々が、言語、食習慣を含む文化を携えて舟でインド洋を渡ってマダガスカル島に辿りつたと考えられている。それにしてもオーストロネシア言語の分布域の広さは驚嘆に値する(西はマダガスカル、東はイースター島、北は台湾、南はニュージーランド)(図)。マダガスカルのイネは大部分がインディカ、一部が熱帯ジャポニカである。

ウィキペディアより


栽培種としての稲は数千年前に、中国南部の珠江Pearl River中流域で始まったと言われている [Huang et al., 2,012]。珠江は香港付近で南シナ海にそそぐ大河である(図)。イネの作物化であ
るが、最初に野生イネ Oryza rufipogon が作物化されてO. sativa japonica ができる。これに再び O. rufipogon (但し最初のものとは遺伝的にやや異なる集団)と交雑して O. sativa indica ができたというのがゲノムシークエンシングを駆使した最近の大規模な研究の結論である [Huang et al., 2,012]japonica は栽培地域によって温帯temperateジャポニカと熱帯tropicalジャポニカ(javanica)に分かれたという。

一方米国のイネである。よく知られているように米国は国家戦略として主要作物の種子を世界中から集めている。イネについては1,900程のコレクションがあり、このうち 1,763 についてSNPをもとにした遺伝的解析が行われている  [Agrama et al., 2,010]。この解析をおこなったのは例のスツットガートにある農務省(USDA)とアーカンソー大学(University of Arkansas)の研究者達である。解析の結果、イネは5つのクラスターを作り、それらはtropical japonica, temperate japonica, indica, aromatic, それに aus であった。最後の ausは東部インドやバングラデシュで栽培されている洪水に抵抗性の小グループだ。米国で収集されたコメは63品種に上るが、これらの大部分(52品種)は熱帯ジャポニカのクラスターに包含され、少数がインディカ(2品種)、あるいは温帯ジャポニカ(2品種)であった。残りはどちらともいえないジャポニカ(7品種)であった。

このことから、米国のイネの大部分は熱帯ジャポニカである。個々のイネ品種の由来が記載されている文献を入手できなかったので、論文のsupplementary tableから読み取れるのはここまでである。稲は東南アジアからマダガスカルに渡り、このうち主に熱帯ジャポニカが米国南東部に到達し、この稲は北米南部の湿潤地帯全域に広まったと考えられる。稲は地球を4分の3周したのだ。もちろんこの稲作を支えていたのは奴隷であった事実は無視するわけには行かない。このため南北戦争後の奴隷解放によって、サウスカロライナなどでは稲作が衰退してしまったのだ。

さてジャポニカとインディカの違いであるが、一般には短
粒種=ジャポニカ、長粒種=インディカ、と理解されていると思う。筆者もそう思っていた。ところがイネの品種の遺伝的な近縁度と粒の形状には上のような固定した関係はない。ジャポニカのなかにも粒の長いものもある。アメリカ長粒種というのは名前の通り、典型的な長粒種の特徴を持っている(写真)。私は当初これはインディカだと思ったのである。しかし、これが熱帯ジャポニカだとしても不自然ではないのである。

今日では、100以上の品種が六つの州(アーカンソー、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、ミズーリ、それにカリフォルニア)で栽培されている。アーカンソーでも日本米の栽培が行われていたりする(写真)。しかし東アジア由来のコ
メ品種を栽培しているのは何といってもカリフォルニア州である。カリフォルニアで稲作が盛んなのはサクラメントの北にある6つ郡である(前回の州別稲作図)。ここでの稲作はゴールドラッシュの頃の中国系移民、その後の日系移民によってもたらされたものである。これらの稲は太平洋を渡ってきたので大西洋経路と太平洋経路の両方を合わせると、稲は地球をほぼ一周して北米大陸に到達したわけである。(今回はこのカリフォルニアの稲作の成立については述べない。)

最後になったが、アーカンソーには第二次大戦中の日系人収容所が2箇所あった(写真下)。このことからアーカンソーの稲作が成立するのに日系人が関与している可能性を当初から考えていた。これがスツットガート訪問の動機の一つであった。その理由の一つはテキサスに稲作を広めたのは岸吉松という人物であった。岸はテキサス州南東部で稲作を試み、1,908 年に 初収穫を得た。その後最盛期には約40人の日本人、日系人がそこで生活していたという 。そこで、アーカンソーでも同様のことがおこった可能性を考えたのだ。しかし、アーカンソーの稲作は Hope という白人によってもたらされた。さらにアーカンソーに収容された日系人は主に西海岸に住んでいた人々で、実際アーカンソーに日系移民が入植したとする記録は見つからない。筆者はロスアンゼルスでかつてアーカンソーの収容所にいたことのある方とお話したことがあり、もともとこのミシシッピ川中流域に日系人がほとんどいなかったことは確実である。

 
Jerome War Relocation Center

Rohwer War Relocation Center

(この項終わり)


No comments:

Post a Comment