Thursday, July 23, 2015

古地図を見る


90度回転させて現代の地図と同じ方角配置にした

銀座の歩行者天国で古地図を買った。江戸の古い地図が年代ごとに揃えてあった。だいたい古いものが高価だったが、古くなるほど江戸の市域が小さくてつまらない。ちょうど手頃な値段だった160年前頃の地図を買った。

これを壁に貼って飾りにしようと考えていたのだが、いざ額に入れてみるとこの地図が意外と面白いことに気がついた。地名や藩屋敷の名前が場所によって向きが違っていて統一性がないと思っていたのだが、すべては真ん中の江戸城が上になるように文字が入っているのだ。 
溜池
江戸城を除く大きな区画のほとんどが藩屋敷であるのも江戸らしい。こういう都市は江戸だけである。寺だらけの京都は好対照である。現在外掘り通りの赤坂見附と虎ノ門の間に溜池という場所があるが、ここには実際に溜池があった。現在墨田川沿いにある墨田公園は水戸藩下屋敷であった。東大の本郷キャンパスが加賀屋敷であったことはよく知られているが、これより北の千駄木から北は畑地か雑木林であったらしい。
水戸藩下屋敷(墨田公園)

加賀藩屋敷(東大本郷キャンパス)と不忍池

またこの地図の西に向かって、現在の新宿通りと青山通りが伸びているが、やはり現在の青山あたりで市域が終わっている。江戸の後期でも市域はこの程度であったらしい。国木田独歩の“武蔵野”は1,898年に書かれたものだが、独歩はその頃住んでいた澁谷村の風景を描いたという。この地図の約40年後でも渋谷はまだ田舎だったようだ。

江戸の西端
だいぶ前に陣内秀信著、“東京の空間人類学”という本を読んだときに、東京の道路や区画が基本的に江戸時代に作られたものを踏襲しているということを知った。こうして地図を見てみるとそのとおりであることがよく分かる。しかしこの大枠は江戸幕府の都市計画に従ったものであり、その最大の功労者は徳川家康である。
(蛇足ながら、書名に”人類学”とあるが、この本は人類学の本ではない。)







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