Thursday, July 16, 2015

"Neanderthal Man" 読後のメモ書き

【1】【2】【3】【4】【5】から続く)

Svante Pääbo自身による分子人類学の位置付け
Pääboは日本のメディアのインタヴューに答えて、“分子生物学的アプローチは考古学を補完するものだ”という 。現時点でゲノム配列が明らかになっている人類は、旧人に属するネアンデルタール人、デニソヴァ人、および現生人類のみである。一方、旧人と呼ばれる原人以前の人類についても様々な化石が見つかっていて、これらの考古学的なデータの量もまた膨大であり、21世紀になっても新たな発見が続いているという。しかしこれらの骨からのDNA抽出についてはその大部分が絶望的であろう。

Pääboらはネアンデルタール人からDNA抽出を試みるに当たり、骨が好適に保存されるための条件を考察している。それは低温であること、乾燥していること、それにその場所がアルカリ性であることを挙げている。この最後の条件が決め手となって、クロアチアのカルスト地方の洞窟から発掘された骨を用いたのだった。分子生物学実験をしたことのある人は知っていると思うが、DNAはアルカリ性で安定である。

この意味でシベリアの洞窟でデニソヴァ人の骨が良好に保存されていたことは象徴的である。今後も気温の低いシベリアから大きな発見がなされることが十分予想される。

人類の発祥地がアフリカ大陸であったことは確実である。アフリカは暑熱の地である。したがって、このアフリカでどのようにして人類が進化してきたかを分子生物学的に追及することには相当な制約がある。

それにも関わらず、保存状態の良い比較的“新しい”骨からのDNA抽出とゲノム配列の決定が試みられ、それらは多大な情報をもたらすであろう。とりわけヒトの進化を読み解くうえでは旧人の前の段階、原人のゲノム情報が強く望まれていると思う。

分子生物学の歴史研究への応用
最近古い人骨の断片化したDNAと現代人の十分な長さをもっているDNAとを効率よく分ける方法が開発されたために、より“新しい時代”の人骨のゲノム配列が決定されるようになった。これを用いて青銅器時代(BC3,000-1,000年)における黒海、カスピ海地方に分布していた民族の移動を追跡するような仕事がなされるようになった[Callaway et al., 2,015]。今後は類似の方法を用いることによって、人類の歴史が人の移動をもとに論じられるようになるのであろう。この分野は何と呼べば良いのだろうか? ”分子考古学”?

余談ながら、この青銅器時代の研究に取り組んでいるグループは一方で最古の家畜であるイヌの成立を明らかにするために、計4,000検体のイヌとオオカミのゲノムDNAを決定しようとしている。(ネコ家畜化の研究はこちらを参照)

人類がゲノムの外に蓄積した遺産
最近の人類学の潮流として、人類がその特有の性質をどのよ
うに獲得してしたかという点に焦点が絞られている。ここでいう人類特有の性質とは、要約すると、個体レベルでは高度の脳機能、集団レベルでは文化や社会性ということになる。この観点で人類学を俯瞰した野心的な書に海部陽介の人類のたどってきた道”がある。このような視点は人類学研究の中で1,990年代から起こったという。この流れで重要視されているのが壁画とか装飾品のような芸術の萌芽のようなものである。ラスコー、アルタミラの洞窟壁画はつとに有名である。

最近のトピックとしてインドネシア、スラウェシ島で発見された洞窟壁画がある [Aubert et al., 2,014]。これは約4万年前のものと推定されている。ラスコー、アルタミラにみるようにこうした洞窟壁画はヨーロッパでしか発見されてこなかったのだ。このインドネシアでの洞窟壁画の発見は、欧州だけではなくかなり広い範囲で人類の抽象性、表現性、芸術性が発達していたことを示す証拠とみなされている。したがって、ヒトの持っている事物を抽象的に把握する能力は、アフリカにとどまっている間に獲得されていた可能性が高いとする説を補強したことになる。この壁画が描かれた年代の推定は極めて重要であるが、この論文では uranium-series disequilibrium dating と記載されている年代測定法を用いて精密に行われている。年代測定の信頼性は人類進化を論じる上で死活問題である。

海部はその書の中で、より萌芽的な芸術として装飾品の例を挙げている。その最古の例として南アフリカのブロンボス洞窟で発見されたベンガラの塊に刻みつけられた装飾がある。年代測定の結果、約7万5千年前に作られたものと推定されている。

今、人類学はこうした文化、呪術、宗教などの萌芽がいつ頃、どこで起こったかを追求しているということである。

分子人類学の開く未来と懸念
Pääboが開拓した分子人類学はおそらく人類学の専門家以外にも大きな衝撃を与えたと思う。特に、ゲノム情報から得られる無尽蔵のヒントをもとに、旧い人類を再生しようとする試みが企画されるようになってきた【5】。なにやら技術の進歩がSF的世界を実現しようとしている。こうした研究に対する倫理的な枠組みを議論することは重要である。

今我々はゲノム情報の洪水の目の当たりにしている。遺伝学が人種隔離やホロコーストのために用いられた過去があることを、我々は忘れるべきではない。

幅広い議論を可能にするために多くの人々の分子生物学的リテラシーの向上が実現されることを望まれる。


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